覚え書き

清水恵み

触れる

10年以上前、旅先のカトマンドゥで遭遇した事で、今も深く覚えている事がある。

 

乗合バスで友人の家に向かっていた。その頃のカトマンドゥの乗合バスは、以下の写真のように、座席が横一列についているものだった。ある所から、隣に5歳くらいの女の子が座ったのだが、彼女は座ると同時に、非常に自然に私の膝に手を置いた。まるで当たり前に。

彼女はお母さんと一緒にいて、誰にでもそうするのではないのだろうとは思うのだが、あの時の彼女にとって、隣に座っている私は外国人とかは関係なく、身近に頼れる人だった。

 

 100%の信頼というものは強い。うちの猫でも私を無条件に信頼している。心変わりを恐れる事はない。子供とつきあっていても、8歳以下の子供は私が裏切るだろう可能性を微塵も思わない。

彼女の年齢に加え、カトマンドゥの人々の身体の距離感の近さを思った。彼女は家族のような距離感で当たり前のように私に触れた。私はその手の暖かさを非常に尊いものとして受け、その温かさは10年以上たった今でも、折々の行動の大事な示唆となっている。

 

 電車の中で、隣の席に座っている人が眠り、こちらにもたれてくる事がある。私はその時にいつも彼女を思い出す。今、隣にもたれているおじさんは私のお父さんなのだと想像する。この想像は、そんなに事実と遠くないと思う。私でなくても、彼は誰かのお父さん、誰かの肉親なのだ。お母さん、妹、弟、兄、姉、いとこ、友人。丁寧に、想像する。そうすると身体はリラックスする。触れている相手の身体が温かい、大事なものになる。

時に私はふざけて、カトマンドゥの彼女を思い出しながら、軽くもたれ返したりもする。

重すぎると感じる時も、ピリピリしてでなく、普通に声をかけたり、一番端に座っている座席をゆずったりできる。ピリピリして隣に座っている女の子にわざと話しかけたりする。

例えちょっとした言い合いになっても、ピリピリとなにもしないよりも、交流があると身体はスペースをシェアする。買い物でいちごが安い。少しでも重いものを取ろうとする。「どれもほんまはそんな変わらへんのに、選んでしまいますよね」と隣のおばさんに話しかける。(大阪だとよく起こることだが、東京郊外だと無言な人が多いので。)場は変化する。

 

私はカトマンドゥの女の子の暖かさを大事に胸に持っている。なので私はおせっかいだろうが何だろうが、少しでも人に話しかけることにしている。